明治時代に僧侶の河口慧海さんが、仏典を求めてチベットに密入国し、さらに密出国して帰国するまでの旅行記。
冒頭は、インドからヒマラヤを越えてチベットに至るまでの冒険譚になっていて、すごく面白い。
無事にチベットに潜入してからは、チベットの風俗や現地の庶民の生活から政治体制についてまでが記録されている。これも非常にユニークで面白い。
これぞ「リアル>>異世界転移<<物語」的な。
まさに不撓不屈、なのだが、どうも彼の倫理観は、私には理解できなかった。困惑する。
彼が厳格に、僧侶として正しいと信ずる道を貫いていた、というのは分かる。だから尊敬されたのだし、尊敬さるべき人だ。
でも・・・、
当時のチベットは鎖国しており、日本人は正規のルートでは入国することができなかった。
で、彼は密入国の道を選んだ。
俗世の法律よりも、仏法を求めるという信仰の方が優先される、というのは、分からなくもない。
しかし、そのために、彼に関わった多くのチベット人が投獄されるなどした。彼はその人々を助けるために尽力したのは確かだ(実際に救われたのかは不明)。これが予測不能な禍だったなら、仕方ない面もあろうが、彼は前例あるを知っていた。密入国した外国人に騙されて修行を助けた高僧が、その罪状で死刑にされるのを目の当たりにしたのだ。自分が同じことを起こそうとしていると、気づかなかったはずがない。
不可解なのは、彼が
崇高な目的のためでも、不正な手段を使うは言語道断、常に誠実な手段を用いねばならぬ
つまり、
「目的は手段を正当化しない」
という強い立派な信念を持ちながら、密入国の際には、
「私は中国人だ」
と偽って(宗主国の中国人は入国できたらしい)、周囲の人を騙したことをなんとも思っていないことだ。どう折り合いをつけていたのだろう。
この嘘そのものは、直接誰かを傷つけるものではない。けれど、人を騙して密入国すれば、「騙された」ために死をもって罰せられる人がいる。彼だって、自分の偉大なる目的のためには他人が死んでもかまわぬ、とは決して考えていなかった。
もっと不可解なのは、彼は自分が騙したことによって「恩人が罰せられること」には心痛したが、「関所の官吏が罰せられること」には何らの痛痒も感じず、彼らによる(もっともな)報復を不当だと思い軽蔑していた様子・・・。
その解釈のヒントらしいことは、チベットからの密出国後に、ネパールへ行こうとしたときに触れられている。身分を疑われて困難が生じた際、
「嘘でも、日本政府高官だと答えておけば問題ない、チベットに入る時に中国人だと嘘をついたのと同じではないか」
と、彼は親切な現地の人(?)に助言された。そのときの返答は
「チベットは鎖国をしていたのだから仕方がない。ネパールは文明の国なのだから」
相手を蛮族とみればその意思を無視し、文明人とみなせば尊重する。
気高い僧侶だが、当時の日本人の民族意識の範囲内の人ではあり、それは時代の制限というものだろう。
思うに、「崇高な目的」はあくまでも達成されねばならず、その手段は「できるだけ」誠実であるべきだ、ということなのだろうか。まともな手段がなければ不誠実な手段も止むを得ないということなのかな?
この本を読んでいる間、ずっと「嘘も方便」という仏教の言葉が頭を離れなかった。